NYでの試練
しかし、ここからが本当の始まりだ。
NYでの新生活はこれからで、まず店舗を探してヘアサロン営業の準備を整えねばならない。
KoshiとYokoが口を揃えて「もう二度と経験したくない」と呼ぶ店舗探しはかなり過酷だった。
「日系の不動産屋に依頼して連絡を待ちながら、クレイグズリスト、NYタイムズの日曜版、For Rent広告をチェックし、毎日朝から晩までFor Rentと出ているところをしらみつぶしに見て歩くんです。1ヶ月くらい毎日。物件を見つけたら、僕よりYokoのほうが英語ができるから『お前電話しろ』って電話させて(笑)」
「そうそう! 『ジャパニーズ、ヘアドレッサー』って言った途端ブチ!って切られるのを二百本くらいかけて。全て断られるから、もう胃が削れてしまいましたよ」
「それに僕たちお金を持って来ていたけど、それは店の軍資金だから使いたくないじゃないですか。
だから朝はスパム目玉焼きとご飯。昼食は抜きかピザ。それを毎日毎日」
「路地裏一本見逃さないって勢いで歩いて、靴擦れだけでなく、歩きすぎてヒールが折れてもKoshiは『おまえ、早く来い!』って待ってくれないから裸足で歩いて。それでも置いて行かれて。上から下まで、歩いてない通りは無いっていうくらい歩いて。
泣きながら歩いてたよね。」
Yokoがそう訴えてもKoshiは「それは覚えていない」という。
どうやらとぼけているわけでもなさそうだ。
そして色白のYokoが日焼けでコーヒー色になった頃、二人はクレイグズリストの情報で今の店と出会う。
「その頃の6th Streetはまだまだ疲れ切った雰囲気が漂っていたんだけど、なんだか光る一角があって」
とYokoが話す光りの源は、アート&カルチャーマガジン「The Journal」のギャラリーだった。
その日、The Journalはそこでフォトシューティングをしていた。
二人は近くの木陰からそれをこっそり見つめる。
「ここってひょっとしてクリエイティブじゃない? イケてるかも!」
後に深い縁を結ぶことにもなるThe Journalの存在が決め手の一つとなり、約1ヶ月余りの店舗探し地獄はAvenue BとCの間の六番街で終わりを告げる。
それからは毎日オープンに向けての準備だ。
遅れて日本から合流したTaikiは、その時アメリカ、NYの洗礼を受ける。
「知らない土地で三人で会社を興しても、英語も話せない。知り合いもいない。
そんな中でお店を作っているのに、中々工事が進まない。待ち合わせの時間に相手がこない。
必要な物があっても英語が話せないので何処に何があるのか分からない(笑)」
近所の子ども達が店に石を投げて悪戯するのを追い払いながら、できることは自分たちでやった。
壁や床も自分達で塗った。
予定どおり進まない工事に驚きながらも、2005年11月、Salon Shizenはようやくオープンした。

閑古鳥とウィルス
ところが、客が来ない。
「BGMをかけても仕方が無いっていうくらいお客さんが来なくて、外では雪がしんしんと降り、店の中では暖房の『シューッ』という音しか聞こえない状態でしたよ」
とYokoがその頃の様子を話すと、Koshiがお客さん第一号の話をする。
「知人の紹介でアメリカ人のお客さんが2人来てくれたんだけど、僕たち英語がまだ話せなくて、切ってる途中で突然『ノーッ!』って怒られて。コミュニケーションも取れず、プライドがずたボロになって、この先大丈夫かなと不安になりました。
今から思えば、日本人と違ってアメリカ人は、例えば”Shorter!”とか、はっきりどうして欲しいかを言うから、そういうものだったんだなと思う。
けど、その時は全くわからなかったからカルチャーショックでした」
日系新聞にオープンの告知をしてもらったり、企画を持ち込んでスタイリングのコツなどの連載記事を書かせてもらったりもした。
「毎日手が空いたら3人でミーティングして、どうしたらお客さんに店のことを知ってもらえるだろうととことん話し合ったけど、結局良い仕事をしてお客さんに気に入ってもらうこと、一人のお客さんに丁寧に接していくことで、紹介してもらうことにつながると信じてやるしかないよねと話していました」
とKoshi。
そうこうするある日。
突然ひっきりなしに電話がかかり始める。
「電話が来て、予約をとって、切ったらまた電話が鳴る。それが3度くらい続いて!」
Yokoがそう思い起こすのはオープンから1年が経過した頃だ。
「その頃お客さんの一人が『面白いことがあった』って話してくれたんですよ」
とKoshi。
「『わたしお茶やってるんですけど、お稽古の後に10人くらいの駐在員の奥さん達と食事をしていて、髪はどこでやってもらってる?って話になったんです。
わたしがShizenと言うと、『わたしもShizen』『わたしも!』って。結局全員がShizenだったってことがわかったの』って」
それが一度だけではなかった。「お茶」が「ジュエリー教室」や「学校」になり、たくさんのお客さんから似た話を聞くようになった。
Yokoはそれをウイルスに例える。
「例えは悪いけど、感覚的にはウイルスみたいなのがバババババーッと広がってきた感じ。まるでそのウイルスの潜伏期間が1年だったみたいに」
「正直な話、持って来たお金がもう無くて。残りは三十数万円、後1ヶ月分くらいしかない、お客さんが来なくてこのお金が無くなったら支払いもできなくて、僕らもう終わりだね、と話してる時期だった」
というKoshi。
Yokoは「こんな感じ」と言いながら、右手で下降する直線を描きつつ、左手で上昇する直線を描き、目の前でクロスさせて見せる。
日本から持って来たお金が減って行く線が底に達する前にお客さんが増え、なんとか首がつながる。
「いや、危なかったぁー。とんでもない感じでした」
その口調はまるでジェットコースターに乗ったよと話しているかのように明るく楽しげだ。

「でも僕たちは、日本人に愛される美容室をまず作って、日本の技術を世の中に送り出したいという信念を持っていた。まずNYの日本人に理解されようと思った。NYに居る日本人はすごい人ばかりでしょ?
学生だって何かを学びに外国まで来ている人たちだし。そういう人たちに理解してもらえる美容室を作ろうって。
NYでちゃんと生活している、ちゃんと働いている日本人達は、同じようにちゃんとしたアメリカ人達とつながっているはずだし、だからそういう日本人達でお店をいっぱいしたら、いずれもっとつながっていくと信じていたんです」
Koshiが淡々と語り始める。
「でもこの話をすると、NYに行く前も行った後も、笑われたり、バカにされたり、考え直せとも言われましたよ。
『NYの日本人はせいぜい6万人で、そのうちまともに働いてるのは3〜4万人くらいだ。たかだか4万人、日本の地方都市レベルを相手にしてビジネスなんか成り立たない。考え方を変えた方が良い』って。でも僕はそんな統計ではかれるようなもんじゃないと思ってたし、『じゃあその4万人がみんな来てくれたらいいじゃない』って思ってたし、数で勝負するんじゃないとも思ってた。もちろん日系のサロンの中には、日本人をターゲットにする必要は無い、アメリカ人のお客さんで潤っているっていうところもあると思う。
でも僕たちは、まず日本の人たちに理解されるというのを僕らの個性として守り抜かなくてはいけないと思ってた。
それを貫き通した、ぶれなかったっていうのが良い結果につながったと思っている。
それにぶれる余地がないくらい3人で話したしね(笑)」
「ほんと、お互いの表情だけで相手が何を考えているかわかるくらい(笑)。
離れていてもわかるくらい話し合ったよね。
朝も夜もヒマさえあればミーティング。というか、ヒマがあったからだけど」
とYokoが笑って続ける。
今やShizenを訪れる客は日本人だけに限らず、NY近郊の州から来る人だけでもない。
「フィラデルフィアとかテキサスから来てくれる人もいるし、グアテマラやブラジルから年に2回来てくれる人、カリブの島やポルトガル、イタリア、ドイツ、オランダからわざわざ来てくれる人もいるんですよ。
韓国の人たちや、The Journalの撮影で知り合ったアーティストの人たちも」
そう教えてくれたYokoはNYのアーティスト達の間で引っ張りだこのスタイリストとなった。
「結局はものの本質ですよね。僕らがやってるのはサロン。サロンというのは良い髪型と、良い時間をお客さんに提供するもの。
皆同じことを考えていると思うけど、僕らは僕らが考えているものをはっきりとお客さんに提供するのが重要なんじゃないかと思っている」
こう話すKoshiが次にお客さんに提供したものは東京の店だった。
Top Photo by Tim Barber
