あれは忘れもしない2004年2月のことだ。
ニューヨークに引っ越して間もないその日の午後、無性にドーナツが食べたくなった。
しかし、外はとてつもなく寒そうで、目分量で計った気温は摂氏4度。
たかだかドーナツひとつのために、歩いて10分のところにあるKrispy Kreme Doughnuts(クリスピークリームドーナツ)まで行く気になれない。
途中で凍死するかもしれないし、凍死を免れても足の指が凍傷にやられる危険性がある。出不精な人間はそう自分に言い訳する。
たかがドーナツ。
卵と牛乳と砂糖と小麦粉をぐりぐりっと混ぜてさっと油で揚げ、さらに砂糖をまぶしただけのおやつだ。おやつのために凍死するなんてバカげている。ちょっとだけ手間を惜しまなければ、すぐに熱々のにありつけるはず。
そう思ったらもう口中にツバが湧き出てきた。
引っ越したばかりでまだ空っぽの慣れない台所に立ち、それでもちゃんと揃っていた卵、牛乳、砂糖、小麦粉、ベーキングパウダーといった必要な材料を次々とカウンターの上に取り出す。
そして何度も作って慣れ親しんだレシピにそってドーナツ生地を作りはじめた。
「しめしめ。小さいのが6個はできそうだ。これで明日のおやつにも困らないはずだ。」
そうほくそ笑みながら、中華鍋に新しい油をなみなみと注ぐ。大容量のオイルボトル半分以上、惜しげも無くたっぷりと。
油が熱くなり、ちりん、ちりんと音がし始めたところに浮き輪型に整えたドーナツ生地をひとつ、ぽちょんと落とす。
「さあ2つめも」
そう思って中華鍋のすぐ横に並べていた2つ目のドーナツ生地に手を伸ばしたその時、目の端っこが鍋の中の異変をとらえた。
たった直径5センチほどの小さな浮き輪だったドーナツが、中華鍋の中でみるみるうちに成長している。
そのスピードたるや、尋常ではない。
浮き輪形の生地が「じゅん!」と音をたてて熱い油の中に沈んだと思いきや、底に到達するよりも先に一回り大きくなっているのだ。
ドーナツの浮き輪はみるみるうちにどんどん成長し、直径は既に元の倍。10センチ近い。
「どうしたんだ?」
いつもとは様子が違うドーナツに動揺したわたしは、2つめを投入するのをためらう。その間約数秒。直径5センチのドーナツは10センチになり、15センチになり、あっという間に20センチになった。そしてとうとう中華鍋のふちいっぱいに広がる。
そのサイズ約30センチ。椅子のクッションになるサイズで、もはや浮き輪の真ん中の穴は無い。
中華鍋サイズのグレムリン・ドーナツの誕生だ。
中華鍋の鉄壁に阻まれ、それ以上大きくなれなくなったグレムリン・ドーナツは、今度は自らをキツネ色、そしてタヌキ色へと変化させながら中華鍋一杯の熱い油をぐんぐんと体内に吸収し始めた。
鍋の中はまるで栓を抜いた風呂桶のよう。水深ならぬ油深はどんどん下がる。
グレムリン・ドーナツは不気味な生き物のように、ギラギラとしたテカりを見せつつ鍋の中で油をゴクゴク飲んでいる。
中華鍋のフチからは煙まで立ち上り始めた。
中華鍋の中から突然姿を現したグレムリンを目の当たりにし、恐怖に凍り付いて動けなくなっていたわたしは、そこでジョー・ダンテ監督の1984年公開映画『グレムリン』の惨劇シーンを思い出してハタと我に返った。
「このままではグレムリンに台所がやられてしまう!」
入居前に改装してもらったばかりの台所をグレムリンにめちゃめちゃにされてはたまらない。慌てて中華鍋の火を消し、右手に鉄製の中華お玉を、左手に金属のフライ返しをとって武装した。
両手に武器を強く握りしめ、醜く膨れ上がったグレムリンに果敢に立ち向かう。
「えいっ! ヤァーッ!」
お玉とフライ返しとでグレムリンの首根っこ(と思われる箇所)をひっ捕まえ、ずっしりと重いその身体を鍋から引きずり出す。そしてその死骸を棺に見立てた大きな皿の上にドサリと落としてやったのだ。
「ふぅーっ」
突然強いられたグレムリンとの戦いに勝ったと安堵したわたしは、手近の椅子にへたり込んだ。戦場だった中華鍋にはあんなになみなみと入れたはずの油が一滴も残っていない。
空っぽになった中華鍋の横には何事もなかったかのようにくつろいでいる、まだグレムリンに変身する前の可愛いモグワイ状ドーナツの生地5つ。
「どうしてこの罪もなさそうなモグワイ達が突然グレムリンに変身してしまったのだろう? 一体何が起こったのか? どんなルール違反をしてしまったのだろう?」
そうつらつら考え始めた時、ドーナツ生地の向こうにある、数日前に買ってさっき開けたばかりの小麦粉の袋が目に飛び込んできた。
パッケージにはデカデカと書かれた2つの単語。
SELF RISING
セルフ・ライジング=勝手に膨らむ
そうなのだ。その小麦粉にはすでに膨らし粉が添加されていたのである。
そんな小麦粉がこの世に存在するとはつゆ知らない日本育ちのわたしは、当然その小麦粉にレシピ通りの膨らし粉を加えていた。
知らぬ間に、自らグレムリン・ドーナツの母となっていたのだ。
それに気づいた頃にはドーナツに対する食欲は完全に失せていた。残ったモグワイ生地達がグレムリンに変身するのを許すわけにもいかず、泣く泣く残る5匹をゴミ箱送りにして退治する。だが、食べ物を無駄にしたという悲しさの中に、グレムリン発生の原因を解明できたという喜びもちょっぴり芽生え、少し落ち着きも取り戻すことができた。
捕獲した宇宙人に蹴りを入れる『インデペンデンス・デイ』のウィル・スミスよろしく、大皿に安置されたグレムリン・ドーナツの死骸をお玉でぴしゃりと叩き、さて、こいつの処分をどうするかと考える。
よし、相棒が帰宅したら、グレムリンドーナツの残骸を見せながらその日の午後の冒険談をたっぷりと聞かせてやろう! そう決めた。
だが、その数時間後……。
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